なぜ戦国は車輪を再発明できなかった!特別史跡の水城を歩いてみた。
訪問日は 2017-12-31。
古代の史跡は総じて地味だ。なにかが残っていればいいほうで、
「ここに〇×がありました。発掘したらわかりました」
と看板があって、でーんと空き地があって、もうしわけ程度の復元遺構が展示されてる、というのが大半だ。
今回行った水城は 3km ~ 4km ほどあった巨大な土塁がかなり残ってて、古代史跡としては派手な方だが、石垣や天守の残る近世城郭とくらべたら地味だ。実際に合戦があったわけでもないので、戦国山城にくらべてもロマンで見劣りするかもしれない。
が、なんといっても国の特別史跡である。国重文と国宝、天然記念物と特別天然記念物、国の名勝と国の特別名勝くらいの差があるのだと、識者が認定しているのだ。
実際、それくらい、興味深い城址だった。
前置きはそのくらいにして、いつも通り時系列でレポしていこう。
手子嶋《ててこじま》
フィールドワーカーの朝は早い。夜明け前にJR水城駅を下車。まずは手子嶋という史跡を目指す。なぜなら駅のすぐそばだからだ。行きがけの駄賃はいただく主義だ。
到着。曇天かつ夜明け前 15 分なので薄暗いどころでなく、まだ闇であった。
写真は明るさを補正した。ようするに、ちょっとした丘というか空き地である。
伝説はこうだ。水城の大堤を築くために駆り出された親子がもっこで土を運んでたら、
「大堤が完成したぞ~」
と聞こえてきたので、おもわずもっこを放り出した。そのときの土がこんもりと丘になったのだと。
もっこ一回分の土が、フットサルができそうなくらいの丘にねえ。ダイダラボッチの親子かな?
と、民話にケチをつけてもしょうがないのだけど、そうでもしないと他に何も感じることのないただの空き地だったから。
これよこれ。これが古代史跡よ。地味だ。だが、それが……いや……うーん、どうかな?(すなお)
駅のそばだと言った。ただの丘だとは事前にわかっていたけど、この距離なら、そりゃあ寄りますわい。
水城西門跡
まあ、手子嶋は朝メシ前の挨拶代わりのプロットの体験版の前菜のボタンを押せば面クリアとなるチュートリアルみたいなもんだ。とっとと、本番の水城を目指そう。
さて、雲に覆われているとはいえ、日の出の時刻を過ぎると、建物と樹木くらいは見分けられる明るさになる。
てくてく歩いているうちに、ただの住宅街に残る雑木林、気にもとめていなかったものが、不自然に一直線に続いていることに、ようやく気付いた。
意識していなかった背景が、目的地だと理解したときの私の衝撃と興奮。
あんまし、なんで興奮するのか伝わらないとは思うが、 戦国山城の土塁の高さを基準に考えると、 この距離で見て、この長さ、高さ。こいつはやべえ土塁だぜ……なのだった。
この切遠しに門があり、ここから海辺の鴻臚館(現在の福岡城)まで官道があったという。
ということは、後ろをふりかえって写真を撮るべきだったのかもしれない。が、小雨のふる 12/30 の早朝、私の思考力は著しく低下していた。
なお、官道は並行するように東にももう一本あり、そちらは博多と水城東門を結んでいた。
水城は古代、太宰府の外郭として築かれたが、その名残がいまも太宰府市と大野城市の市境となって残っている。
水城。高さは 10m ほど。幅は 80m ほどもある。
戦国の山城の土塁なんて、高さ 3m も残ってれば、
「おうおう、残りが良いじゃないの~」
なのである。経年で高さが減ったとしても、当時とて 4m ~ 5m 程度のものだろう。
のちに秀吉が京都に築かせた御土居は、総延長こそ 22km と水城の6倍ほどもあるが、高さは 5m 幅 10mほどだ。
水城。高さは 10m 。幅は 80m 。80m てアンタ!
では、そろそろ水城の成り立ちについて説明しておこう。
>水城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%9F%8E
むかしむかし、大化の改新のころ。倭国は滅亡しかけている百済を助けて、新羅・唐の連合軍と戦うことにした。
そして、遠征先の白村江で倭軍はボロ負けぶっこいた。
伝承をひもとこう。唐・新羅軍はよく訓練された兵隊で陣形を使いこなし組織的に攻撃した。しかし未開人である倭軍は陣形?なにそれおいしいの状態だった。倭の兵士は目前の敵に猪突猛進する戦い方しか知らなかったので負けたのだという。
これは、きわめて深刻な事態だった。というのも、つまりこの戦いで鉄の武器・鎧、そして海戦には欠かせない軍船を大量に失ったということになるからだ。現代で言えば、最新鋭の爆撃機・戦闘機・空母をまるっと失ったも同然だった。
しかも当時の倭国は、国内の鉄生産量が需要に足りていなかった。 倭国は鉄供給のある程度を任那諸国からの輸入に頼っていた。 任那諸国が新羅に征服されて鉄の輸入が難しくなったことが、朝鮮情勢介入の理由のひとつであった。
そして、大敗により、武器防具を大量に失い再生産も追いつかない、丸裸に近い状態で、
「唐と新羅が、逆に倭国まで攻め込んでくるかもしれない」
という状態になったのである。
恐慌状態になった天智天皇政権は、大慌てて九州に防衛ラインを築くことにしたのだ。
敵軍が来るとしたら、まず筑前に上陸して拠点を作ると予想され、筑前には超重要拠点・大宰府があったから。
大宰府。字面を追えば、ただの宰相じゃない、いちばんえらい大宰を置く府だよ。つまり首都の次に大事な都市だよ、みたいな意味であろう。実際、大陸の玄関口として、経済的には首都である大和よりも繁栄してたんじゃないかと個人的に予想する。
この、西の首都とも言える大宰府を守るために平野部に濠をうがち、土塁を築いたのが水城だ。
是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。
(中略)
秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。
と、日本書紀にはあり。雑に訳すと
「壱岐と対馬と筑紫に駐留軍を派遣して、ノロシ式通信機を設置した。そんで、大きな堤を築いて水を貯めて、水城と名付けた。(中略)長門国に城を築いた。キラキラネームをふたり派遣して、大野城と椽城という二つの城《き》を築いた」
というところ。
ここで大事なのは、城と聞くと我々は現代の感覚で曲輪など「平面空間」を有するものを城だと考えがちだけど、当時は城といえば濠であり土塁であり石塁であり、遮断のための「線」こそが城だったという点。
万里の長城が、単なる城壁なんだけど「城」なのと同じ。
たとえば Castle を機械翻訳で中国語にしてみると、「城堡」と出てくる。中国語辞書で「城」を検索すると意味は「城壁」と書いてあるわけです。
つまり、城とは厳密に言えば、壁の部分のこととなる。多少、甘く見ても、濠や柵のことまでだったのだろう、古代では。(城の一字で城堡を意味するようになる、つまり wikiって略すな状態がいつ始まったのか、私は調べてないので存じません)。
とすれば、お城の雑学本の最初にたいてい書いてある
「城という字は土偏に成ると書き……」
という説明も、すんなり理解できる。
「建物が土から成るか?中国だって木造建築だろ?やい!」
という難癖は、そもそも成り立たないのだ。なぜなら城とは壁のことなのだから。
さらに言えば、「成る」という言葉の意味もまた考えどころがある。
というのも、「土偏に成る」と言われれば我々はついつい、土を材料にして壁が作られた、と考えてしまう。
が、「成る」とは状態の変化を表す言葉だ。と考えれば、
「壁が無かった場所に、土で出来た壁が存在する状態に変化した」
と解釈するのが自然であろう。前者の解釈だと、土器や陶器の方が「城」という字にふさわしくなってしまう。
「無から有に状態変化」を「成る」という例に「なるほど」がある。つまり、理解がない状態から理解がある状態に「成った」のである。
というようなことを考えているうちに、JR線で水城がぶったぎられてる場所に来た。
戦国期土塁に引き継がれなかったロストテクノロジー
つまり、大昔に大宰府を守る必要があったにせよ、現代ではくっそ邪魔なのだ。 しかし、だからと言って躊躇なく破壊しては文明人とは言えない。
というジレンマに対処した結果、もともと御笠川があって土塁が途切れていた場所に、西鉄の線路と高速道路が通り、東門の切通しに国道が通っている。JR線はもともと切通じゃない場所をぶったぎったようだけど、それが西門の切通しを破壊しないためだったのかどうかは、よくわからない。
この、ぶったぎられに関しては、DPZ に記事があった。
>水城(みずき)のインフラ殺到具合がおもしろい – デイリーポータルZ
>http://portal.nifty.com/kiji/150116166081_4.htm
当時、御笠川の部分で水城は途切れていたのか、それとも御笠川を暗渠にしていたのかわからなかったのだけど、DPZ を信じて開渠だったということにしておこう。
そして、ぶったぎられてしまっているため、向こうに見える土塁断面広場に行くには、ちびっと遠回りしなくてはならなかった。
と、断面図エロを見せられても、ほほうなるほど、土の種類を変えて、人為的に土層を構築しているんですな、というくらいしかわからないが、説明板が充実しており、非常に楽しめた。
戦国期にも例を見ない、巨大な土塁の建築方法がすごかった。ロストテクノロジーだらけ。
まず、土塁の作る前に地面を掘り下げて、わざと 20cm くらいの粘土層を作るんだと。
基礎が軟弱地盤(粘土)。意味がわからない。
しかし、古代人は経験則で物事を行う。迷信もまじるから完全に無意味なものも少なくないが、同時に「理屈はわからんが、こうしたらうまくいったので、やっている」というものも多いのだ。
この「土塁の下にあえて軟弱な基礎層を作る」に意味があるとしたらなんだろうか?
ひょっとすると、免震構造だろうか。わざと土塁をユルユルヌルヌルの層に「乗っているだけ」にすることで、地震で土塁そのものが破壊されないようにしたのではないか。
それとも粘土に木の枝などを敷いたものの方が安定するんだろうか?
まあ、わからんのでこれ以上の憶測はやめよう。
わかっているロストテクノロジーもある。
土塁の上の方は版築になっていた。一定間隔で板で区切り、突き固めたものだ。
この、突き固める時に古代人はわざと土層に傾斜が生じるようにし、土中の水が大宰府側に流れるように工夫していた。
博多側は勾配が急なため、水の流れる速度が上がり、土塁が破壊されやすいというわけだ。
こんな工夫、戦国期の土塁では見られない。車輪は再発明されなかったのだ。
敷粗朶《しきそだ》。くだんの粘土層に敷かれた低木の枝。作業するときに歩きやすくするためという説がある。
古代中国では土塁のかさを増すために、大量の薪で芯を作って、土をかぶせる方法が用いられたという。古代中国で森林が消滅した理由の、小さな一因だ。大きな一因は、やっぱり鉄生産。当時の非エコの因果応報は、いまも砂漠と黄砂という形で子孫を苦しめている。
その古代中国の環境破壊は飛鳥時代には倭人の知るところとなっていても不思議はない。敷粗朶《しきそだ》が低木の枝ばかりなのは、そのせいかもしれない。たぶん、そんなことないと思うけど(どっちやねん)
当時の貧弱な斧では太い樹木を伐採するのは大変だから、土塁の心材にするのはもったいなかった……てあたりが真実じゃないかな。
そして遊歩道からも外れ、御笠川・西鉄・九州自動車道で分断されたところで、雨に濡れた道のない土塁斜面をそろそろと降り、最後は滑り落ちるように滑り落ちた。
防壁の防壁たる部分を満喫できて良かっ……いや……どうだろう(すなお)
水城東門跡
御笠川を渡るには水城からちょっと離れる必要がある。迷うリスクを避けて、御笠川を渡ってから国道に出て、それから水城東門跡へ到着。
黒い石碑が立ってるあたりで、博多へつながる東の官道が発掘された。
中央から下向した官人は東の道から東門経由で大宰府に入り、大陸からやってきた外国人は 西の官道から西門経由で大宰府入りしたようだ。
倭人と国賓とで道を変えるよう決まっていたのか、単に港から近い方の道を使っただけなのか、ちょっとわからない。、
水城の博多側。こちら幅 6m の堀があったというが、いまでは田んぼの用水路にその名残りを無理やり見出すことしかできない。
どこかに堀跡の説明板があったのかもしれないが、大宰府側を歩いてきたので……。もし、次の機会があるなら、博多側を歩きたいねい。
いやでも、滑落したときは傾斜のゆるい大宰府側でよかったよ。ほんの 2 ~ 3m とはいえ。
木樋取水口跡。なんと、傾斜をつけて大宰府側に排水した水であるけど、それをわざわざ暗渠で博多側の濠に注いでいた。
もうほんと、古代人のドボクパワー、あたまおかしい。こんなもん、戦国時代に再発明されなかった云々のレベルじゃない。
だって、大鋸《おが》もない。鉄の刃の鍬《くわ》、鉄の刃の鍬《スキ》も、ほとんどない。 ましてやツルハシなんてチートアイテムもない時代やねんで。
そんな時代に、これだけの公共建築。
古代の街道も、馬鹿みたいに直線的で、道幅も広かった。古代街道のルートは現代の高速道路と驚くほど一致するという。 それに比べたら、鎌倉街道も徳川幕府の整備した五街道も、幅はせまく曲がりくねっている。
日本が再び、このレベルのドボクパワーを持つには、明治まで待たなくてはいけなかったのだ。
古代とは狂ったようなドボクパワーが発揮される時代であった。ピラミッドはその筆頭だ。
労働がお金に換算されない、というのは、つまりそういうことなのだろう。それがいいことなのかわるいことなのかの判断はつきかねる。
ちなみに、行かなかったけど博多側に少し行った先にある公園に、もうひとつ碑があったらしい。
遺構に石碑に説明板、展望台、展示室と充実してて、水城を訪問したいがあんまり時間がない、というなら、ここに来るのがいい。
門の礎石。江戸時代には「鬼の硯石」などと呼ばれ少し有名だったらしい。
門の全体像の推定図などはなかった。たぶん。
西門の方は、最初は簡素な門であったが、戦争の危険が去った8世紀・9世紀には装飾を施した楼門になっていたらしい。おそらく東門も同様だっただろう。
最初は簡素な門だったというのは、大急ぎで作る必要があったからであろう。なお、元寇の頃には東門は失われていた。おそらく西門も同様だったろう。
歌碑などある。中央から単身赴任に来たインテリエリートがボインの誘惑に出来心しちゃって、そりゃあイベントが発生しますよってなもんで。
“水くきの”が訳文に入ってない。こういう場合、だいたい、枕詞。辞書で「水くき(または水ぐき)」を引くと「水城、または(水茎の生えるような水辺がそばにある)岡(すなわち濠と土塁)にかかる枕詞」だという。
大堤の上に立って、ここで大宰府の内と外が別れているのを見ると、別れの辛さに泣かずにいられないのですってことか。
せっかく展望台があるので。屋根が嬉しい。やっと防水じゃないデジカメが出せた。
なるほど。やっぱり、大宰府側(写真左側)の方が少しだけ、標高が高い。
史跡水城境界の石柱。つまり、この先は土塁じゃなくて山やで、ということらしい。
この道をたどればいつかは大野城に行くはずだし、あとで大野城に行く予定ではあったが、さすがにストップ。
山上憶良「大野山 霧立ちわたる わがなげく おきその風に 霧立ちわたる」
((妻を埋葬した)大野山に霧が立ちわたっているなァ……はあ~ああああ~、思い出しちゃう、思い出しちゃう(ためいきの風)……大野山に霧が立ちわたっているなァ……)
という和歌を思い出さずにいられない。
なに?これは霧ではなく雲?いやいや、現象的には霧も雲も同じですから。観測者の位置が、浮遊水滴群の中か外かの違いでしかないですから。
「バカめ!観測点が異なれば観測結果に差異が生じるのは必然ッ!相対性理論掌ッ!!」
「ぎゃびりーん!」
まあ、そんなこんなで
なんぼ、大和朝廷すげえええ~~~、と言っても、万里の長城にはまるでかなわんわけですが。
ただまあ、日本書紀に現れる古代城は、史料的に確実な「初期の城」であって、日本の城のルーツ、流れを把握するうえでも重要であると感じることができた。さすがに特別史跡。説明が充実してた。
古代城があってこその、中世山城があり、戦国の城、近世城につながっていくわけなのでね。
戊辰戦争を理解するのに関ケ原から始めるくらいのノリで、やはり古代城も捨て置いてはならんのです。
と、えらそうに言ってますけど、東京住みの私は行きやすい古代城が近くになくて、水城が初めて訪問した古代城になるんですが。ああ、多賀城に早く行きたい……。
最後に。近くまでは行かなかった、水城第2広場にある水城跡の碑はこれらしいです。
なお、せっかく築いた水城であったが、唐・新羅が日本に攻め込んでくることはなかった。
むしろ、唐と新羅はもともと不仲で、互いに目の上のたんこぶだった百済・高句麗が滅んだあとは敵対関係になったのである。
したがって戦後はむしろ唐から(新羅を牽制するため)最恵国待遇に近い扱いで遣唐使が続いた。星新一氏はこの、唐と新羅は実は対立していて、倭国まで敵に回したくなかったという点を見逃していたらしく
「わけがわからん。戦争をしかけておいて、負けた相手に以後ご指導をよろしくの前例なのか」
という意のことを、どこかのエッセイで書いていた。事情がわからんとそう見えるよな。その事情というのは米ソのそれと、非常に似ていたのだが。
最恵国扱いといってもうわべ上のものだったので、たまに唐様が機嫌の悪いとき
「おいジャップ、ヤキソバパン買ってこいや。てめーのカネでな」
「あ、ハイ。急いでいってきやす」
みたいなことが、天智天皇時代になかったわけでもないらしいという。この辺もスーパー301条のアレを連想させますな。