一城一国令の破却跡がよく残る城、岩国城へ行った。
訪問日は 2018-01-01。
昨年の元旦、松江城の本丸から見た初日の出が想像以上に良かった。
というわけで、2018 の元旦も初日の出を見るのに良さそうな城、を基準に選んでみた。とはいえ、優先順位は肥前名護屋城と筑前国水城に筑前国大野城であったから、九州→東京の帰路にある城、できれば山口県~広島県あたりが望ましい。
となると、やはり、岩国城であろう。
岩国と言えば錦帯橋。錦帯橋はマンガに描いたこともある。だから、一度おとずれたいと長いこと思っていた。
岩国ロープウエーは、初日の出のために早朝から営業しているらしい。ならば、あとは早起きできるかどうかである。
そして当日。それなりに早起きしたつもりだったが、自分の歩く速度を過信していたらしく、錦帯橋に着いたころには、
「らめぇ初日でちゃうぅぅっ!」
な明るさになっていた。
そして錦帯橋にはうっすら霜がおりていて滑るのなんの。朝からえらいアトラクションであった。
初日の出は、このゴンドラの中で見ることになろうか(それはそれでアリか、と思いつつ)
昨年の松江城も、あの低い丘陵の上に到着した直後に初日の出だったが、2年つづけて、ギリギリで間に合うというタイミングとなった。
岩国城の場合、山頂というだけで、大手門跡より外だから間に合ってないとも言えるが。広い意味で山頂=城の防衛における主体、であるから、私の中では間に合ったことになっている。
スマホどののお手軽パノラマ。いろいろオートで撮ったら、いまいちな感じに。
こうしているあいだにも、刻一刻と朝焼けの赤が薄まっていく。
わずかに光に赤みが残るうちに、模擬天守まで到着できた。千と千尋の模擬天守DVD(ネタが古い)。
では、ひといきついて、問題多き模擬天守の話へと進もう。
岩国城模擬天守の問題
話の前に、まず、岩国城がどういう城かを踏まえておこう。
>岩国城(山口県岩国市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/85/
吉川広家が築き、1615 年の一国一城令で破却された、7年間しか存在しなかった城という。つまり戦国期には存在しなかった城だ。
じゃあ、なんのための城なの?という疑問はつきまとう。まさか、関ケ原以後の吉川家が徳川を挑発するようなことはできまいし、かといって西国大名の抑えの城でもあるまい。吉川広家は抑えられる側の大名なのだから。
WHY?はともかく、吉川広家は、岩国の市街地に近い、錦川が蛇行して天然の濠となった場所に平時の居館を定め、背後の横山の山頂に戦時の城郭を築いた。形式としては、典型的な中世戦国期の城である。
形式は中世戦国風でも、さすがに関ケ原以後であったから、石垣が築かれ、天守もあった。天守の最上階が2階よりも大きく張り出した異様な天守であった。こういう天守を、当時のひとびとは「南蛮造り」と呼んだのである。
この建築様式にヨーロッパ由来の技術が使われたというわけではないだろう。宣教師の見せた教会の絵に影響されたという可能性はあるが、憶測の域を出ない。ましてや当時は珍しいものに何でも「南蛮」を使う風潮があった。現代における「エスニック」と大して変わらない。
そして7年後、大坂の役で豊臣問題が片付くと、無用の戦乱を起こさせないためにという名目で、一国一城令が発せられた。
吉川家が周防国の支配者であり主城は岩国城。言葉の通り「一国一城」が原則ならば、岩国城を破却せねばならない筋合いはなかったはずだ。
が、一国一城令も例外処理は多く、犬山城のように残ることができた城もあった。岩国城は、逆に残れなかった城となる。
吉川広家は周防国のすべてを支配していたわけではなかった。関ケ原の戦後処理により、周防の一部は吉川家、一部は毛利家と分けられたのである。そして、毛利家長門国の「一城」は萩城と決まった。
毛利氏は防長二国、その主城は萩!長門国の他のしろは全部破却!……な空気の中、毛利の分家である吉川家、関ケ原で裏切った戦犯(個人的には、たとえ吉川広家の裏切りが無くても西軍は負けていたと思うが)の吉川家が、自分とこだけ城郭・天守を残したいとは言い出せなかったのではないか。
徳川に叛意がないことを示すためにも、破城やむなしだったのであろう。
……という経緯で、横山山頂の石垣の重要部分や、天守の建物部分が破壊された。南蛮造り4重6階の天守について設計図は見つかっていない。不思議なことに、天守台(石垣部分)は、破壊されずに残った。
ここまではよろしいか?重要な所は赤字太字にしましたよ。では、話を昭和にワープさせよう。
昭和。戦後、ここ岩国でも他の城下町と同様に、観光用に天守再建の機運が高まった。 なんといっても、南蛮造りである。言葉の意味はよくわからんがとにかくすごい集客力がありそうだ。 第一次お城ブーム、全国的な「おらが町にもお城ほしいだ」である。
まだ、本格的な木造復元が当然とされる時代ではなかった。 外観さえよっぽど大間違いじゃなければ許される時代だった。 そして、岩国城の場合、その外観も史料に乏しいので、南蛮造りさえそれっぽく推定外観復元されていれば、まずまずよろしいというレベルであった。復元は「天守構造図」という絵図に基づき推定復元されることになった(なお、この「天守構造図」とやらを私はネット上で見つけることができなかった。どの程度信頼できる絵図なのか不明である)。
しかし、である。
当時の岩国市は、当時としても
「いかがなものか?」
という批判される決断をくだした。
つまり、観光のため、復元天守を現存天守台の上には建てず、ふもとの錦帯橋から見える位置に建てたのだった。
そう、1602 年に錦帯橋はなかったので、当然に、錦帯橋が見える位置に本来の天守は建てられなかったのである。
あらたな模擬天守は、本来の天守より南に 30m ばかしずらした位置に建てられた。
観光用にというのはわかるが、史実をねじまげるのはいかがなものか?そういう意見は当時とて、あったと思われる。
天守台が残っておらず、正しい位置がよくわからなくなってるのなら、観光を優先するのもいたしかたない。しかし、天守台が現存してるのに、そこに建てないとはなんだ!歴史を軽視しているのか!という声はあったはずだ。
しかし、一部の学者の言うことであり、声は小さかった。実際の話、錦帯橋から天守が見えるのは、たとえ歴史的にはまがい物であっても、景観として素晴らしかった。
では次に平成 17 年(2005年)にワープしよう。
この年、財団法人日本城郭協会が設立40周年を記念して『日本100名城』を選定しよう、と決めた。基本的には協会会員の投票をもとに選ばれた。
そして、史実にもとづかない位置に建てられた模擬天守について、静かに怒っていた城郭愛好者は、意外に多かった。
投票結果では、岩国城は当落ギリギリのラインだったのである(むしろ投票数では落選していたフシがある)
おそらく、岩国城の100名城入りを決めたのは選定委員の意見によると思われる。 山頂に残る、破壊された石垣が一国一城令の破却の様子を示す貴重な遺構として評価できる、という理由で、岩国城は100名城に選ばれたのだった。
北曲輪など、横山の北東方向に突き出た部分が重点的に破壊されている。
これらの破壊の跡から、城を機能不全にするためにはどこを破壊すればいいのかという問題について、当時の武士がどう考えていたのかがわかる。
単純に、破壊の痕跡から兵どもの夢の跡や吉川家の立場を感じるのもよい。
観光用に天守再建を計画した人々が歯牙にもかけなかったであろう、そして、撤去する費用も惜しんでそのままにした、壊された石垣が、岩国城の100名城入りを助け、観光の一助となったのだ。
それでは最後に、平成 29 年(2017)にワープしよう。
この年、名古屋城の木造再建計画が本格化するにあたって、現存天守台についての議論が沸騰した。名古屋城の天守台は、戦災により高熱にさらされ、木造天守を支えられないほど脆くなっている可能性があるのだ。
これについては、私は 2018 の正月に実際に名古屋城に行き、考えたことをブログに書いた。
>天守台のひび割れっぷりに戦慄した 尾張国名古屋城 | 桝席ブログ
http://www.masuseki.com/wp/?p=9678
また、近年、江戸城天守の再建計画が持ち上がっては、学者や識者から反対が表明されるという動きが繰り返されている。
>江戸城天守再建の是非 [よもやま話] | 攻城団(全国のお城検索サイト)
https://kojodan.jp/blog/story/1166.html
議論がおきる根本を、ひとことで言えば、こうだ。
現存天守台は貴重な遺構であり、観光用復元天守(建物部分)のために犠牲にしてはいけない。
しかし、観光客誘致は重要だ。自治体の収入が途絶えれば、遺構の維持管理も難しくなるのだから。
個人的には、この問題の解決策は、図らずも岩国城の模擬天守が示してくれたと考えている。
すなわち
「現存天守台はそのままにして、復元天守は現存遺構を破壊しない場所にずらして再建する」
だ。
という副作用が生じるのは否めない。おまえら城郭ファンが、さんざんそれを批判してきたくせに、それをやれというのは、どういう二枚舌だ?という話であろう。
しかしながら、現存遺構を守るためという名目が立つならば、その史実乖離は許されるべきなのだ。
岩国市が模擬天守の場所をずらしたのは観光のためであって、遺構を守るためではなかった。
破却した石垣を放置したのは、復元整備する予算が無かっただけの話であろう。
そのいずれもが、たまたま良い結果につながった。結果オーライであった。
史跡や歴史的文化財を扱う大原則は【現状維持】だ。とりかえしのつかないことは、できるだけ避けねばならない。なぜなら、とりかえしがつかないからである。
いま、私たちは姫路城と言う世界に誇る歴史遺産を有している。姫路城の主要な部分が多く破壊されず残った理由が、
「壊す費用がもったいないから放置された」
だったことを忘れてはならない。多くのとりかえしのつかない文化財の破壊は、善意のもと、それがみんなの利益になると思って行われる。
左が村田銃。中央が火縄銃。右は単に「銃」と書かれていたが、幕末に輸入された西洋銃か、それを模したものだろう。
なるほど、西洋銃が当時の日本人の体格には合わないのは容易に想像がつく。
日本各地のお城の写真は天守の定番展示物だが、岩国城の場合、日本各地の名橋の写真も。ちょっと笑ってしまった。
錦帯橋の模型。マンガを描いたころに、トレスし放題の自分が撮った写真があったらよかったのに。
歴代藩主の肖像ではパンチに欠けるからか、岩国出身の有名人たち。
初日に輝く岩国市や錦帯橋は、さすがに美しい。史実を無視してもこの位置に模擬天守を建てた当時の岩国市を、いちがいに否定はできない。
日本三大・天守眺望のひとつと言って過言ではなかろう。個人的には、あとひとつは犬山、最後のひとつはまだ決められないとしておく。
錦川をはさんで、対岸の岩国山。岩国山に適切な展望台があれば、岩国城も天空の城の仲間入りできそうな気がするんだが。
下山の時刻が迫ってきたので、あわてて外に出て見逃しがないよう回る。
大手門跡。岩国市は、なまじ錦帯橋と言う優良な投資先があるため、山頂遺構の復元なんかはする気配もない。それが良い。それでいい。
旅行前は、登山か下山のどちらかは徒歩を考えていたけど、前日に足をくじいていたので、下山もロープウエーにした。
錦雲閣。なんだったっけ。いや、いいんだ、そんなことは検索すれば!(ぉぃぉぃ)
吉川資料館。もと藩校。門や建物の一部は現存。この日は正月だったので休み。
そんなこんなで。 錦川の蛇行をうまく利用した選地などに目を見張るものはあるものの、縄張り自体は、まぁ、そんなものだろという、特筆するほどのものではなく。破却が北の丸を中心に行われているのを見ると、側面の断崖は石垣だろうと石垣でなかろうと攻める側には関係ないとわかる。攻め手の論理がわかる点では重要。
現存天守台は、せっかく現存してるのにうまく活用できてないと感じた。
しかしまー、ともかく、この景色ですよ。ここからの眺めのために、一訪の価値ありと思いますね。